歴史問題 — 「国民の物語」を超えて

東京大学法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2014/1/28

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AFP=時事

歴史問題をめぐる対立が続いている。韓国の朴大統領が安倍首相との首脳会談を拒む背景には慰安婦問題に関する日本政府の対処への批判がある。中国は、昨年末の安倍首相の靖国神社参拝に批判を繰り返すばかりか、中国ではなく日本こそが国際関係の安定を破壊している、靖国参拝はその証拠であると主張し、「歴史カード」を使って日本の国際的孤立を進めようとしている。日中戦争と第2次世界大戦から半世紀以上も経ちながら、過去の解釈が現在の国際関係を揺るがし続けている。

どうすればこの状況を打開できるのだろうか。そんなことは考えるまでもない、簡単だという人たちがいるだろう。中国・韓国などの諸国では、日本が謝罪し被害者に補償をすればいい、それをしないから日本が信用できないのだと唱えられている。日本には、日本政府は繰り返し謝罪を行ってきた、これ以上何をすればよいのかという議論がある。そもそも謝罪の必要はない、第2次世界大戦における日本の行動は正当であったという、もっと急進的な立場をとる人もいるだろう。

これらの議論は、変わるべきなのは相手のほうだ、自分の側は毅然として立場を堅持すればよいだけだと考える点で共通している。逆に言えば、自分のほうが変わる必要があるとは思っていない。問題の責任が相手にあるとお互いに考え、どちらも自分の立場を変えようとしないのだから、紛争の長期化は避けられない。さらに、領土主張の棚上げのような現実的妥協の可能な領土問題と異なり、歴史問題を利益調整や妥協で打開することは難しい。歴史問題が継続する根拠がここにある。

私は安倍首相による靖国神社参拝は愚かな選択だったと考える。

首相就任から1年間、安倍政権はアメリカばかりでなくASEAN(東南アジア諸国連合)各国も巻き込み、中国の攻撃的な政策への懸念を喚起してきた。だが、領土問題では日本と協力する諸国を期待できるが、歴史問題については日本の味方はない。政権が発足したときから第2次世界大戦における日本軍の行動を安倍首相は正当なものとして評価しているのではないかという疑いが中韓両国ばかりでなく欧米諸国にも見られたが、靖国参拝はその疑いに根拠を与えてしまった。戦争責任者も合祀されている神社に参拝したのだから、不戦の誓いを訴えても効果は乏しい。過去の正当化によって現在の日本が信用を失う危険が生まれてしまった。

ここで気になることがある。日本でも中国でも韓国でも、歴史問題をめぐる論争が自国の犠牲者に焦点を当て、他国の犠牲者を見る視点が乏しいことだ。韓国では専らコリアンの慰安婦の受難ばかりが語られ、南洋を中心としたコリアン以外の慰安婦の受難はもちろん、一般の日本国民も含めた第2次世界大戦の犠牲者に目が向けられることは少ない。それでいえば、日本でも広島・長崎の原爆被害をはじめとする戦争の犠牲が日本国民の経験を中心として語られ、日本人以外の経験に目が向けられなかったのは否定できないだろう。自分の国民の受難を語る一方で、他の国民がどのような経験をしたのかが語られることは少ないのである。

それぞれの国民にとって、国民の受難に目を向けない戦争の記憶は誤ったものに過ぎない。広島・長崎の被害を度外視した戦争の記憶が日本国民に受け入れがたいのと同じように、南京大虐殺、あるいは従軍慰安婦の経験に目を向けない戦争の記憶は中国国民、あるいは韓国国民にとって受けいれることのできない誤った記憶にすぎないものと見なされてしまう。そこにあるのは、中国、韓国、日本のそれぞれが、国民の物語のなかで戦争を語り、相手が自分の経験を無視していると非難を加えるという構図である。

これはいかにも狭いものの見方ではないだろうか。日中戦争と第2次世界大戦の犠牲者が日本人に限られないのは言うまでもない。中国や朝鮮半島の人びとがどのようなことを経験したのか、謝罪の必要を議論する前に、違う視点から見た戦争を知ることが必要だろう。それが中国政府や韓国政府の主張に迎合することになるとは私は思わない。どちらの主張が正しいかという選択ではなく、国境を超えた視野から戦争を捉える視点こそが求められるからだ。

不戦を誓う前提は戦争の認識である。日本国民の経験だけから戦争を捉え続ける限り、その誓いが日本の外に住む人びとの胸に響くことはないだろう。歴史問題の膠着を乗り越えるためにも、日本国民ではない人びとにとっての戦争を知ることが欠かせないのではないかと私は思う。


この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に
2014年1月22日に掲載されたものです。