集団的自衛権の行使 − 慎重な判断、期待できない

東京大学法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2015/7/23

新安全保障法制が衆議院で採決された。賛成できない。政府は法案を撤回しなければならない。

私がそう考える理由は、立法手続きに瑕疵があるためだ。今回の新安保法制については、数多くの憲法専門家から法案は憲法に反すると指摘された。違憲の疑いがある法案については、国会において他の法案以上に慎重に審議を行う必要がある。与党が議席の多数を占めるからといって採決を急ぐことは適切ではない。まして参議院での行き詰まりを見越したかのように衆院における再議決を想定した政治日程を組むことは、慎重な審議とは正反対の選択である。衆院の多数に頼って憲法との関係が争われる法案を押し切ることは、民主政治の根幹を揺るがす行動であり、認めることはできない。

では、憲法との関係と法案審議の方法だけが問題なのか。集団的自衛権をどう考えるべきだろうか。

私は集団的自衛権一般を排除すべきだとは考えない。

集団的自衛権とは同盟国に攻撃が加えられたときには自国に攻撃が加えられたときと同じように反撃するという、同盟と不可分の概念である。もとより日本国憲法と日米安保条約の間には矛盾があるが、いま国民が安保条約の是非、それでいえば自衛隊の存否を疑問視しているとは考えにくい。むしろ日本の安全保障に役立つ限度では安保条約も自衛隊も受け入れてきたのが戦後日本政治であった。日本のために同盟を利用するが、同盟国の安全には関わらないという選択である。

これは同盟国の協力による防衛を模索してきたヨーロッパにおける北大西洋条約機構(NATO)と大きく異なる選択である。米国から見れば、米軍は日本の傭兵のような存在でしかない。同盟諸国の負担に相互性の乏しい同盟協力は米国による日本防衛への関与を弱め、それが日本の防衛を揺るがす危険を生み出す。新安保法制の背景には米国に置き去りにされる恐怖があった。

だが、問題はその先にある。軍事力の保有や使用を全て否定する立場をとらないとしても、集団的自衛権の承認が軍事行動の幅を広げ、戦争を防ぐどころか戦争を引き起こすことになりかねないことは事実である。これまで日本では米国の始めた戦争に日本が荷担を強いられるという巻き込まれの恐怖に焦点が当てられてきたが、中国と周辺諸国との間に緊張の続く現在の東アジアでは、米国主導の戦争に巻き込まれる危険ばかりでなく、日本が戦争を始め、米国を巻き込む側に立つ危険も無視できない。

ここで重要なのは、軍事力の行使において常に必要となる慎重な判断を、現在の日本政府に、そして国会に期待することができるのか、という点である。私はそこに強い懸念を持つ。それが、乱暴な採決や違憲の疑いとはまた別個の、国際政治を学んできた者としての私の新安保法制への懸念である。

日本政府は、日中戦争、そして太平洋戦争において侵略を行った過去を持っている。憲法9条が定められた国際的背景には、日本が二度と侵略を行わないように武力の保持を認めないという連合国の判断があった。その憲法9条が今なお日本国民に広く受け入れられているのは、日本が二度と戦争を行わないことが国民的合意として保たれてきたためであった。

国際政治において軍事力の果たす役割を否定することは難しい。軍事的威嚇によって戦争を抑えることがないとはとてもいえない。だが、軍事力の行使によって諸外国の国民にも自国の国民にも大きな犠牲を強いる可能性があることも否定できない。そして、戦力の保持を全て否定するのでなければなおさらのこと、軍事力の行使が本当に必要なのか、それに代わる手段によって平和を保つことが不可能なのか、徹底した検討が必要となる。その検討を行わない者が軍事力を手にすることほど危険なことはない。

安倍晋三首相はキャンベラやワシントンなど世界各地を訪問する中で、戦争への反省に基づいた言論の自由を守る民主主義国家としての日本を訴えてきた。だがその安倍首相が、新安保法制を審議するなかで第2次世界大戦における日本の戦争責任を正面から議論したとはいえない。過去の侵略戦争に対する責任を自覚しない政府に対して、将来の国際紛争において軍事力の行使に慎重な判断を取ることは期待できない。今回の新安保法制が今後さらに極端な軍事力行使の承認につながる懸念も残るだろう。

安保条約と憲法の間には緊張がある。その緊張があるからこそ、集団的自衛権が認められる条件について十分な国民の合意が必要となる。その合意が得られるまで、新安保法制を認めてはならない。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2015年7月21日に掲載されたものです。