多数派と少数派 − 共存の民主主義どこへ

東京大学政策ビジョン研究センター副センター長/法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2016/8/25

Illustration by Bambiman - Tyranny by the Majority

小学校の先生に教わった民主主義とは、要するに多数決のことだった。ほんとうに多数決がいちばんよい制度なのか、その頃から疑問だった私は、どうして多数決がいいんでしょうと先生に質問したことを覚えている。

先生は質問に答える代わりに、どこがいけませんかと私に質問を返した。民主主義と多数決を同じものにすればどんな問題が発生するのか、小学校五年生の私は答えることができなかった。

半世紀経ったいまも自信はない。でもあえて答えるなら、多数決だけの民主主義から取り残されるのはマイノリティーの問題だと思う。

多数決によって選挙や議会の投票結果が決まったとしても、負けた側がその決定に従わなければ制度は成り立たない。今度は負けても次の機会には自分が勝つことが期待できるのであれば、自分に不利な決定を受け入れることもできるだろう。だれが多数派で誰が少数派かが固定していない場合、多数決は必ずしも不合理な制度ではない。

それでは、国民の一部に過ぎない少数民族とか宗教など、人口が少ないために国内社会の多数となることができない人についてはどうだろう。民族や宗教によって差別されることがなく、それが政治の争点となっていなければともかく、民族や宗教の違いによる差別が厳しい場合には紛争の発生は免れない。政治社会の決定が多数決によって行われ、その多数決が多数派の考えばかりを反映するなら、少数派が迫害の排除を求めても成果は期待できない。制度によって解決ができないのであれば、力に訴える人も生まれてしまう。多数決だけに頼る民主主義だけでは多数派と少数派が共存する社会をつくることは難しい。

欧米諸国における民主主義は、決して多数決だけを指すものではなかった。森政稔氏が「変貌する民主主義」(ちくま新書)で触れているように、現代の民主主義は自由主義を源流として、そこに民主政治という統治の仕組みが加わったものとして捉えることができる。もし民主主義が政治権力を多数派の手に委ねるだけのものであるなら、民主主義が独裁への道を開くことになりかねない。民主政治の前提は多数派と少数派の別を問わない自由な公共社会である。

移民は少数派の代表である。移民を受け入れてきた背後に国内労働力不足の解消という要請があったのは事実だが、とはいえ、移民との共存は欧米諸国における政治社会の基礎であり、誇りでもあった。移民国家であるアメリカはもちろん、域内の人の移動を自由化したヨーロッパでも、文化や歴史の異なる人々が一つの制度の下で暮らす公共社会を実現したと考えられていた。

そのような社会観念は、いまではすっかり衰えてしまった。欧米諸国の周辺においてISIS(いわゆる「イスラム国」)と結びついた武装勢力が生まれ、その暴力行為がそれまでにも存在してきた国内における移民排斥をさらに強めたからである。

新たな移民がその社会に受け入れられ、根づくことは常に難しい。ことにイスラム地域からの移民の場合、宗教の相違もあって文化的な摩擦は厳しく、フランスやベルギーなどにおけるテロの背景となった。アメリカにおけるメキシコなどからのラテン系の移民は、それまでの住民との人口比率を変える規模に及んでいた。

多民族や多文化の共存などという綺麗事を拭い去り、少数派の排除を公言する政治が生まれる背景は、このような多数派の少数派に対する恐怖があった。メキシコとの間に壁をつくって不法移民を排除しろと訴えたドナルド・トランプ氏は、アメリカ共和党の大統領候補者になった。去る六月にイギリスで行われた国民投票において欧州連合(EU)からの離脱派が勝利を収めた原因の一つにも移民流入への反発が挙げられている。

事態を誇張すれば誤りになるだろう。世論調査を見る限り、共和党候補に指名されたとはいえ、トランプ氏が次期アメリカ大統領となる可能性は低い。国民投票後のイギリスでは政治的混乱が続いているが、EU離脱に加え移民排斥を正面から主張するイギリス独立党は支持を落としている。欧米諸国が多数派と少数派の共存を放棄したなどということはとてもできない。

それでも、多数派と少数派が不寛容に向かい合う構図は不気味だ。既に自由主義は、自分の自由とともに他者の自由を認める制度ではなく、国家が市場から出て行けば自由な社会が保たれるという観念となって久しい。いま民主主義は、自由な公共社会における統治の仕組みではなく、多数派が少数派を排除する制度の別名に変わろうとしている。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2016年8月24日に掲載されたものです。