デモクラシーのパラドックス − 内側から失われる自由

東京大学政策ビジョン研究センター副センター長/法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2017/2/24

藤原帰一

Photo: K.yamashita

デモクラシーには、いま、どんな意味があるのだろうか。

いまから100年前の世界において、議会制民主主義はごくわずかの国にしか存在しない制度だった。欧米世界に限ってみてもドイツ帝国やロシア帝国のような専制統治は珍しくなく、選挙が行われている場合でも選挙権には制約が加えられていた。欧米世界の外では植民地支配が広がっていた。デモクラシーが希望を込めて語られる裏には、デモクラシーとはほど遠い政治の現実があった。

それから1世紀を経た現代において、議会制民主主義はごく当たり前のように世界に見られる制度となった。もちろん、中国、ベトナム、そして北朝鮮のような共産党独裁も、またサウジアラビアのような伝統的専制支配もいまなお残っている。制度としての議会制民主主義が現実に国民の意思を反映していないのではないかと疑う声もあるだろう。それでも、複数の政党が争う普通選挙によって政治指導者を選び出す政治の仕組みが、欧米諸国はもちろんラテンアメリカ、南アジア、さらに東南アジアを含む東アジアへと広がったことは疑う余地がない。民主主義は見果てぬ夢から散文的な現実に変容した。

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民主的に選ばれた指導者が、民主政治を擁護するとは限らない。ロシアでは、プーチン大統領の下で、政府を批判する政治家やマスメディアに対する厳しい圧迫が続けられた。トルコでは、2003年に首相に就任してから長期政権を続けるエルドアン氏のもとで、反政府勢力やメディアに圧力が加えられ、ことに16年のクーデター未遂事件以後は大量の検挙が繰り返されている。日本と並んでアジアでは民主政治の長い伝統を誇るインドでもモディ首相のもとでNGOに対する弾圧が続き、フィリピンのドゥテルテ政権のもとでは麻薬犯罪者への射殺ばかりでなく、ジャーナリストへの迫害、時には暗殺さえ伝えられている。

選挙によって権力を手にしたヒトラーが独裁政権を生み出したように、民主政治が独裁に転換する危険は、これまでにも指摘されてきた。しかしいま私たちが目撃しているのは、国会が放火され民主政治が独裁政権に変わる危険ではない。ここに挙げたプーチン、エルドアン、モディ、ドゥテルテ、これらのどの指導者をとっても、選挙によって指導者に選ばれたばかりでなく、少なくとも過半数、多い場合は80%を超える国民の支持を集めている。特に民主政治を排除しなくても、国民の支持のもとで政治的競合が排除され、政治権力が集中する可能性が生まれている。

なぜ国民が権力の集中を受け入れるのだろうか。その鍵は、社会を敵と味方に峻別する政治のあり方にある。国家の安全を脅かす敵国、あるいは国内に潜んで国民の安全を脅かす反政府勢力など、国家の内外から国民の安全を脅かす勢力に国民の目を向けさせ、そのような外敵と内敵との闘争によって政治権力を正当化する。恐怖によって国民の支持が動員されるのである。

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 このような構図は、これまでに述べたロシア、トルコ、インドやフィリピンに限ったものではない。そこまで顕著な形でないとはいえ、アメリカのトランプ政権でも、また日本の安倍政権でも、民主政治のもとで、国民の支持を集めつつ行政権力に大幅な権限が委譲され、政治的競合が後退する過程を認めることができる。

 この構図は、かつてナチスドイツの台頭を前にした知識人の議論に似たところがある。カール・シュミットの「政治的なものの概念」、あるいはエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」など、立場もアプローチも異なるとはいえ、友敵関係と恐怖の支配する政治のあり方に注目する点では共通する著作だった。

 だが、大きな違いもある。大衆社会論は民主主義ではなく、全体主義の社会的起源を解明することが目的であった。いま私たちが直面するのは、全体主義に向かうことなく、制度としての議会制民主主義の枠を保ちながら、政治的競合や少数意見が排除される可能性である。

 民主政治は国民の意思を政治に反映する政治の仕組みであり、国民の意思を政治に反映する第一の手段が選挙である。だが選挙によって権力を手にした政治指導者に過大な権力を委ねるなら、政治の多元性は失われ、権力に対する制限が弱まってしまう。民主政治のもとで自由が失われるパラドックスがここにある。

 多数者の意思が、多数の横暴であってはならない。デモクラシーが当たり前の制度となったからこそ、デモクラシーのもとで自由な社会をどのように支えるのかが問われている。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2017年2月15日に掲載されたものです。