戦争に踏み切るとき - 見つからない綺麗な答え

法学政治学研究科教授
藤原帰一

この記事は朝日新聞夕刊の『時事小言』
2011年9月20日に掲載されたものを元にしています。

2012/1/17

国際政治の研究者として最も難しい選択が、戦争の是非の判断だ。政治家ではないのだから、開戦を決める権限も責任もない。状況を左右する力を持たないのに開戦を論じるのは滑稽な思い上がりだ。だが、わかっていても、気にかかるのはどうしようもない。開戦の評価は、戦争の回避を希求しながら状況によっては武力行使が必要なことも自覚するという、国際政治学の本質的な矛盾を突く選択だからだ。

2003年のイラク戦争では、戦争が間違いであると開戦前から確信していた。制空権さえ多国籍軍に奪われたフセイン政権を国際社会への脅威とするのは乱暴だった。独裁体制には違いないが権力は破綻(はたん)していない。独裁を倒す運動が高揚する状況もない。開戦に踏み切れば多くの犠牲を生む一方、アメリカが国際紛争に対して持つ抑止力を弱め、国際関係は不安定を増すだろう。要らない戦争を戦ってはいけない。アメリカは国を誤るという懸念からこの戦争について書き続けた。

そのうちに、多くの人は戦争の是非には興味がないことに気がついた。戦争は政策の手段だ、いいも悪いもないという議論なら、イラク介入は石油目当てだなどという真相の名の下の単純化は気になるけれど、理解はできる。戦争をすべて悪とするなら迷いもないだろう。だが多くの議論は、アメリカの始めた戦争に日本政府が賛成すべきかどうかだけを問い、その戦争は必要なのか、避けられないのかという議論は見られなかった。

そこにあったのは、良かろうと悪かろうとアメリカについて行くほかはないという議論と、アメリカは何をしようといつも横暴だという議論のどちらかだけ。アメリカはいつも横暴だけどついて行くのが日本に有利だという変形版はあったけれど、戦争一般ではなくこの具体的な戦争について是非を検討する議論は乏しかった。

イラク戦争は要らない戦争、戦ってはならない戦争であったといまでも私は考える。だが同時に、武力に訴えることを避けてはならない状況もあるとも考える。多大の犠牲を伴う以上、戦争以外の手段を常に模索すべきことは言うまでもない。だが、多くの一般市民の生命が現実に脅かされるとき、武力行使が必要となる状況もある。

私は、ユーゴスラビア連邦の解体過程におけるNATO軍の攻撃は、少なくともボスニア・ヘルツェゴビナに関連する限り、必要だったと考える。ルワンダの内戦について、国連は大規模な介入を行うべきであったと考える。そして、今年3月の、リビアのカダフィ政権に加えられた国際的軍事介入は必要だったと考える。

リビア介入を石油目当ての利権争いに還元する意味はない。既に欧米諸国と関係を改善したカダフィ政権は西側諸国に石油を提供していた。介入なしに石油は確保されていたのである。

独裁を外から倒すべきでないというのならリビアとイラクのどこが違うのかという声もあるだろう。だが、2003年のイラクには、即座に介入しなければ多くの国民の生命が失われる切迫した情勢はなかった。他方リビアでは、反政府活動が広がるなか、武装なき一般市民が空爆や艦砲射撃によって攻撃され、その殺戮(さつりく)がベンガジに及ぶ直前の状況があった。武力介入を行えば犠牲者が生まれることがはっきりしているのは同じだが、リビアでは介入しなければ失われる多くの人命があったことは無視できない。

リビア介入は避けられない、避けるべきでないと考えた後も、不安と憂慮が残った。国民評議会の力は弱く、NATO軍による空爆なしには戦闘を続けることができなかった。だが、空爆は一般市民の犠牲を避けることができない。人命は失われ、生活は破壊されるだろう。それが本当に必要な選択なのか。戦争が長期化するのを前にして、政治家でもないのに身の程をわきまえないことを問いかける自分のことを滑稽に思いながら、私は何度も問い直し続けた。

いまでも疑いは残る。カダフィ政権はすでにわずかな拠点を残すばかりまでとなったが、膨大な武器がリビア社会に拡散してしまった。国家が暴力の独占を失い、外国軍の力に頼るという現状にはアフガニスタンを思わせるものがあり、リビアが独裁に代わって破綻国家となる危険は実在する。また、シリアでは民主化運動に大規模な弾圧が続けられて半年を迎えている。なぜリビアには介入してシリアは放置するのかという声もあるだろう。

武力行使の効用を過大評価したり、戦争の正義を信じ込むことは危うい。だが、暴力を抑える上で暴力の果たす役割があることも無視できない。どのようなときに武力行使が認められるのか。綺麗な答えはまだ見つからない。