大学の役割 — 「まだ見えぬもの」を考える

法学政治学研究科教授
藤原帰一

2012/6/12

時事評論を書いて既に20年を超える。だが、いまほど政治情勢について書くことが空しく感じられるときはなかった。

北朝鮮による人工衛星打ち上げが迫るという報道に、私は関心を持つことができなかった。北朝鮮政府を信用するからでも、その核武装が招く危険を軽視するからでもない。国外の脅威よりも深刻な崩壊が日本国内で起こっているとしか思えなかったからだ。

税と社会保障の一体改革を唱える政府与党と野党の対決が続き、政治が空転している。これまでに何度も見た光景だ。それで言えば自民党が政権を失ってからの2年半は、民主党が自民党そっくりに変貌し、自民党は民主党のような野党に姿を変える時間だった。政治学者である以上、これから先はどうなるのか、政党再編成や総選挙の展望を考えるべきところだろう。だが、その意欲も湧いてこない。

どう書いたところで、私の言葉が意味を持って受け止められている手応えがないからだ。もちろん最大の理由は私の力不足であるが、それだけでもなさそうだ。東日本大震災の後、新聞のコラムに大学の教員が言葉を書くという行為そのものから信用が失われたとしか思えないのである。こう言えばそれまでは信用されていたのかと切り返されそうだが、従来にも増して信用されていないという砂を噛むような空しさから逃れることができない。

今年3月、大学院を修了する人々を送る言葉のなかで、立教大学の吉岡知哉総長は次のように述べた。

東日本大震災とその後の原発事故は、大学が「考える」という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった。

吉岡氏はさらに言葉を継いで、「ある時期から、もはや大学には『考える』という役割が期待されなくなったのではないか」とまで述べている。厳しいが、私にはしっくりとくる言葉だ。

ここで問われているのは、大学の教員は仕事をしていないのではないか、専門家としての能力を持たず、意欲も持たないのではないのかということではない。個人の努力の有無ではなく、大学という制度への不信がここでの問題である。

選択肢を示さないからダメだというようにも私は考えない。何を考えるかではなく、何をするかが大切なのだ、現実に行われる政策選択との結びつきを失った分析や解釈には意味がない。そんな批判が大学に向けられて久しいが、眼前の現実を知ることなしに「べき論」を展開しても意味はない。

問題は、「知ること」の意味が失われつつあることではないか。東日本大震災によって多くが亡くなり、さらに多くが生活基盤を失ったとき、いま存在する組織とか制度などにどのような意味があるのか疑いが生まれるのは当然だろう。そのような信頼喪失を前にして、「いまあるもの」の他には選択肢などはないという指摘に終始するなら、その言葉を読み、言葉を聞こうとする人々が減っても無理はない。北朝鮮には軍事的圧力、財政赤字には増税、電力不足には原発という選択は、避けられないのかもしれない。だが、避ける知恵は検討されたのか。大学はその知恵を提示するべき立場にあるのではないか。それをしなければ、大学も与党民主党や官僚機構などと同様に、「いまあるもの」を擁護する制度のひとつになってしまうだろう。

先の式辞において、吉岡氏は「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為」であると述べている。「いまあるもの」は何を目的とし、どのような意味があるのか。さらに「いまあるもの」ではないものを現実につくることは不可能なのか。その検討こそが「考える」ことでお給料をいただくという特権に恵まれた大学教員の責務だろう。

私は大学教授が偽牧師のように根拠のない説教をすべきだといっているのではない。北朝鮮との無条件の和平を目指したり増税しなくても財政再建は可能だと述べたりすることは可能だが、根拠のない夢を振りまくことで言葉の信用が取り戻されるとは思えない。

だが、安全保障から原子力発電所の操業再開に至るまで、「いまあるもの」を受け入れ、それ以外の選択を排除することだけが仕事なら、大学教員、さらに役人、政治家、マスコミ関係者の声が国民に届かないのは当然だろう。

北朝鮮との軍事的緊張の解消も、日本の財政再建と経済成長も、原発依存からの脱却も、まだ見えない。それでもなお、まだ見えないものを語らなければ、言説への不信を打ち破ることはできない。

この記事は朝日新聞夕刊の『時事小言』
2012年4月17日に掲載されたものを元にしています。